今昔美術対談 Art Interview vol.05

今昔美術対談

今昔美術対談
近世江戸絵画の巨匠 狩野探幽と谷文晁

天与の才分に恵まれ新天地を開拓せんか 若き狩野探幽 全ての流れを一つにせんと 唐絵から学ぶ若き谷文晁 江戸美術の発信基地 前板橋区立美術館館長 安村敏信先生に二人について語って頂きました。

加島
お忙しい中お時間を頂戴致しまして、ありがとうございます。 今日は、近世江戸絵画の重要な部分を占める谷文晁とその一派、そして狩野探幽から始まる江戸狩野、この二つについてお話をお伺いしたいと思っております。まず最近入手しました文晁作品をご覧下さい。
安村
これは、金碧山水ですね。寛政文晁と烏文晁の間の享和年間に集中的に金碧山水を画いているんですが、しかしこの作品のサインはもっとずっと若い時の字ですね。それに絵も享和の頃より澄んでいて真摯に画かれた事が感じられます。若い時の試作的な金碧山水かな、非常に面白いですね。研究すべき貴重な作品です。
加島
この建碑記念文晁遺墨集に掲載されています。
安村
なるほど、図録は白黒なので金碧ということが判らないけれど、実物は美しく清らかですね。
加島
話が少し飛躍して申し訳ないのですが、この作品から立原杏所との共通点が見えて来る様に私には思えるのですが、どうでしょうか。
安村
そうですね、確かに似てますね。茨城の歴史館にある横幅の山水人物図と静かな風情とか、きちっとした描き振り、気分がそっくりですね。杏所は文晁の影響をかなり受けた事が、この作品を見てもよく判ります。
ところで、この建碑記念遺墨集の29番の水墨山水が山東文晁といわれる初期の作品で、試行錯誤が窺い知れて興味深いものです。近景と遠景を中程の雲煙で仕切ってはいるのですが、遠山の墨が強すぎてなんか不安定です。でも唐絵を何とか自分のものにしようと勉強する若き文晁を思うと好ましく感じられます。
加島
文晁は折衷派と言われますが、どういう事なのでしょうか。
安村
私は江戸派と呼ぶ方がいいと思っているのですが、文晁は画室写山楼に中国画や大和絵等いろいろなジャンルの絵画を所蔵していました。それらを参考に北宋画、南画、狩野派、土佐派、大和絵、南蘋派、浮世絵から西洋画まで何でも勉強し、そして彼自身の力量もあって文晁風を作り上げたのです。そういう所から折衷派と言われるのでしょう。
加島
築き上げた文晁の画風は、どの様に後に続く絵師達に伝えられて行ったのでしょうか。
安村
文晁は自分の画風を弟子に学ぶように強要しませんでした。門弟千人以上と言われてますが、その内の多数は文晁作品の模写や粉本学習をするより写山楼にある中国画などの絵画を見せてもらって勉強する事の方を望んだみたいで、文晁もそれを禁じなかった様です。だから文晁の没後は谷文晁派という流儀は残りませんでした。そのかわり彼に学んだ人達のなかから渡辺崋山、立原杏所などの一流の画人が文晁派ということでなく、自立して名を残していきます。
去年、葛飾北斎展を館でやりましたが、北斎は弟子達に粉本学習をさせています。他にも狩野派や英派など粉本学習で画技の向上を計った画塾がほとんどです。この事がやがて流派形成につながるのです。しかしこの教育法の中からは、なかなか師匠を越える絵師は現れません。粉本主義の功罪と言えるかも知れませんね。
加島
次に松平楽翁と文晁の関係についてお教え下さい。
全くの想像ですが、文晁が集古十種編纂の為の全国行脚をしていた時に実は楽翁の密命を帯びて各藩の事情もこっそり調べていたなんて事はどうでしょう。
安村
(笑)推理小説の様でそんな事が有れば面白いですね、文晁隠密説ですか…でも現実は文晁は絵師です。一介の画工が藩主や藩の中枢に近づく事は出来なかったと考えるのが順当でしょう。それより楽翁の目的は全国に散らばる文化財の調査発掘にあったと考えるべきです。文晁もその主旨に沿って現状模写を精力的にやって行きます。重要なことは楽翁のこの事業が直接関係はないにしろ、後に明治政府の全国宝物取調係の文化財保護行政へと続くことです。
加島
それでは、このあたりで文晁の弟子についてお話をお聞きします。先生は喜多武清を重要視されていますね。
安村
ええ、注目しています。武清は文晁を引き継ぐ様な形でしたから、文晁の非常にいいところもそっくり表現出来たと思います。そんな武清が描いた二枚折屏風の草花図、当館の展覧会にも出してその図録にも載っていますが、文晁の花鳥画も斯く計りかと想える様な秀作です。また武清は文晁を伝えるだけでなく師を越える程の大和絵を画き、池上本門寺の支院にある探幽を模した涅槃図まで作成しています。
加島
何でも熟せて視野も広い、これは師譲りのところなんですね。
安村
文晁に学んで文晁を凌ぐ部分を持った武清に今後共関心を持ち続けていきたい、そして優れた作品が出てくる事も願っています。ところで、加島さんは流通業界に身を置いていらっしゃるからお解りでしょうが、絵は値が上らないと出て来ませんね。二十数年前の経験ですが、宋紫石を館で取り上げたのですが、最初数十万で流通していた宋紫石の標準的な作品が、館での展覧会が終わってから、あっという間に何倍にもなり、何年か後には何十倍にも値上がりして行ったのですよ。 いやあ、驚きでしたね。でも値が上がると物が出て来ます。その後、宋紫石の重要な作品が数多く世に出て来ました。購入しにくくなりますが、研究は進みます。痛し痒しという所でしょうか。(笑)
加島
続いて狩野派について少しお聞きしたいと思います。探幽についてなんですが、彼は京都から幕府に召されて江戸へ来るのですが、京都の主流から離れる事の不安とか都落ちする様な気分とかは無かったのでしょうか。
安村
それは無かったと思いますよ。だってまだ十代でしたし、今で言えば青年実業家が新しい仕事に取り組む為に東京へ行くみたいなことだったと思います。未開の土地で狩野派の礎を成す、そんな気持ちで江戸へ来たんじゃないでしょうか、きっと意気込みが先行していたと思います。探幽は非常に天分に恵まれた人であった事が判っています。今も残っている探幽の三十代半ばに制作した名古屋城の水墨山水図は探幽様式の典型的な作品ですが、この頃には弟子達は既に師の画風を学び切っているのです。探幽風に絵を描けるんです。ということは、探幽は相当早い段階で自分の画風を完成させているんですね。 近年盛んに言われている余白を有効に使った、軽みのある瀟洒淡白な画面いわゆる江戸狩野の形が出来上ってたんじゃないかと、私はそこまで推察しています。従って京都を懐かしむ忸怩たる気持ちより、希望に燃えて新天地江戸へと乗り込んで来たと思いますよ。
加島
若き天才探幽のお話を聞いて、感銘を受けました。 ちょっと時代が下るのですが、今日は狩野伊川院の絹本着色の三幅対を持参して来たのでご覧頂けますか。私達業界用語で御掛物なんて言いますが、如何でしょうか。
安村
ほう、諸葛孔明の故事を中幅に左右に山水を配した三幅対、なかなかいいですね。書き溜め御用といって、紙本の作品は江戸城に書いて置いとくんですが、これは絹本ですから身分のあるご大家からの依頼画かも知れませんね。唐人物のカラフルな事、金泥で雲を画いているところは、大和絵の技法を取り込んでいるのです。 伊川院の時代になりますと民間画壇の興隆が著しく大名家まで南蘋派を学んだり、琳派を学んだりする様になるんですが、そういった状況に危機感を募らせた伊川院栄信は狩野派の画風を再構築する事を目指します。中国画を学び直し、大和絵の技法を取り入れ旧来の狩野派一辺倒からの脱却を計ります。そして息子の晴川院へと繋いでいくのです。
加島
本日はかなりの駆け足でしたが、貴重なお話を沢山頂戴致しましてありがとうございました。最後に美術に関心の有る方、これから美術に親しみたい方に何か先生から一言お願い出来ますでしょうか。
安村
一言でいうなら是非生活の場に美術を取り入れてもらいたい。この事ですね。日本の美というものは、日本人の生活の場に在ってこそ輝くものなのです。絵画でも書でも漆器や陶器も面白いでしょう。人形やちょっとした細工物や道具でも何でもいいんです。日々のくらしの一場面に置いてみて下さい。その素晴らしさに気付かれると思います。何かいい物を加島美術で捜してみられるのも楽しい事じゃないでしょうか。
加島
最後にリップサービス的アドバイスまでありがとうございました。(笑)

Profile

加島盛夫
加島盛夫
株式会社加島美術
昭和63年美術品商株式会社加島美術を設立創業。加島美術古書部を併設し、通信販売事業として自社販売目録「をちほ」を発刊。「近代文士の筆跡展」・「幕末の三舟展」などデパート展示会なども多数企画。
安村敏信
安村敏信
昭和28年、富山県生。東北大学大学院修士課程修了。日本近世美術史専攻。前板橋区立美術館長。狩野派を中心とする江戸文化シリーズ展など、特徴ある独自の展覧会を開催。主な著書に『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派』(東京美術)、『美術館へ行こう 浮世絵に遊ぶ』(新潮社)、その他著書多数。

※上記は美術品販売カタログ美祭5(2009年4月)に掲載された対談です。